根本裕美さん追悼文集Ⅰ 2021年4月

天使になった裕美さんへ
わたしが裕美さんと初めてお会いしたのは、
2010年10月のつくばライアーの響き定期コンサートでした。
ライアーを始めたばかりのわたしが初めて伺ったコンサート。
その時司会をなさっていらしたのが裕美さんでした。
柔らかなお声と可愛らしいお姿の裕美さんが
ゆったりほっこりと進行をされていて、
真っ白な衣装に包まれた裕美さんはまるで天使のようでした。
それからというもの裕美さんはわたしの憧れとなりました。

裕美さんとわたしは身長が近いせいもあり、
お洋服を作っていただいたり
羊毛で作るお花のネックレスを教えに家まで来ていただいたり、お忙しい裕美さんにお願いばかりしていました。

そして2016年8月にわたしが八ヶ岳へ移住をしてからは
あまりお会いする機会がなかったのですが
2019年の6月と7月に八ヶ岳と安曇野でつくばライアーの響きの
コンサートをしていただけることになり、
その時久しぶりに裕美さんとお会いでき、
わたしの家にもお寄りいただけて、
本当に嬉しかったことを今でも忘れません。
今となってはわたしのかけがえのない想い出となりました。

そして去年の春 
本当にお久しぶりに裕美さんからメールをいただきました。
アナスタシアの本についてのご質問でした。
今思うとその頃からご自分のお身体と
向き合っていたのかもしれません。
いつも元氣であちらこちら飛び回っていらした裕美さんだから、病氣など無縁の方だと思っていました。

そして裕美さんが闘病なさっているとは知らず、
今年1月にわたしから裕美さんへメールをしていました。
その時はとてもお元氣そうにお返事をいただき、
2月になったら少し時間が取れそうなのでまたご連絡しますね。
ということでした。でも2月になっても3月になっても
お返事がなく少し心配をしていました。

最後まで皆に心配をかけたくないという
裕美さんご自身の強い想いがあったのだと思います。
裕美さんへ感謝の氣持ちを直接お伝えしたいと思いましたが、
ご意志を尊重し、裕美さんへは時空を超え
わたしの氣持ちとありがとうをお伝えしました。

裕美さんが最期に「短い人生だったけれど幸せだった」
と仰っていらしたということを伺い心がとても安らぎました。
裕美さんの意識は 決して無くならない 永遠のものだから
わたしの中ではいつも 
可愛いらしい天使のような裕美さんが生きています
裕美さん大好きありがとう〜 
またお会いしましょうね              
Kanon

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~ゆみさん、
ライアーを通して出逢い、早20年になります。
いつもはつらつと若々しく、可愛くて、
先生というご職業のこともあってか、
きびきびと色々なことに才能を発揮されていました。

まだ若くて、色々な出逢いを楽しんでいたころの私は、
裕美さんの才能にいつも感心するばかりで、
そんな私にもあたたかく、優しく導いてくれました。

つくばの星ハモでもご一緒しましたし、
たくさんのコンサートにも駆け付けてくださり、
日立でも、東京でも、豊かな想い出ばかりが浮かびます。

また、裕美さんと言えば国際派で
オーストラリアに行っていた話なども
面白く話してくださいました。

ご主人さまとも仲良く、話題にされていたのを覚えています。

裕美さんから学ぶことがたくさんあります。
純子さん、しっかり生きるのよ、
と優しく背中を押してもらえるような、氣がしています。

裕美さんが生きたように、いつもいつも楽しんで、
明るく楽しく穏やかに、そんな風に私も生きたいです。

裕美さんありがとうございました。これからも愛しています。              
Jyuny

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~裕美さん
突然の悲しい知らせに凍りついてしまいました。
信じられない気持ちでいっぱい、笑顔ばかりが目に浮かびます。
裕美さんは覚えてないでしょうね。
私が初めてのつくばライアーの響きコンサートに
参加した時のことです。
演奏はたどたどしく自信ない中、
準備でお手伝いできる事はないか、
と舞台に使用するパネルのためのコピーを引き受けました。
予算も舞台のイメージも何も知らないまま
安易に引き受けたものの拡大コピーは高額なる事が判明、
思案めぐらせグループメールにヘルプしました。
すぐに裕美さんからいい方法を考えましょう、
という返信をいただいた時の安堵感は深く心に残っています。
いつもさりげなく、ざっくばらんに温かく接していただき、
ありがとうございました。
舞台作り、司会、お人形作りなど多才なセンスに溢れてた
裕美さん、素敵な明るい笑顔を忘れません。
心からご冥福をお祈りいたします。                              Seiko

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~追悼の氣持ち
裕美さんが旅立たれましたこと、、、を。
ライアーの響きと共に祈りを深め 静かに受け止めてまいります。
回想される裕美さんの優しいお人柄と笑顔 演奏 オイリュトミーの動きは、ずっと私のこころの中に居てくれます。
いつも心を配ってくださり、明るく愉しく居心地良く過ごさせていただきました。
ライアーを通してご縁を頂きました奇跡に感謝致します。裕美さんたくさんありがとうございました。
                                            Haruk 拝
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

裕美さんとの時間はいつも特別な時間でした。
出会いは、大久保幼稚園の未就園児のためのみどりごクラス。
シュタイナー教育をどうしても体験したくて、
末の息子を連れてバスと電車を乗り継いで通いました。
担任の裕美先生のしつらえた保育室、
手作りの教材、ろうそくのひかりのなかでのライゲンや素話。
親子で裕美先生の大きな懐の中で遊ばせてもらいました。

その後水戸の自宅で始めたお母さんのための
手仕事のサークルでは、
月に1度裕美さんに講師として来ていただきました。
雑草の蔓でリースを作りたい、羊毛から糸を紡ぎたい、
素数の糸掛けをしてみたい…みんなの
どんな無理なリクエストにも答えてくれ、
丁寧な下準備と的確な説明と、明るく辛抱強い指導と励ましで、どんな無器用さんも楽しく作品を作り上げることができました。
「ママの手はなんでもできちゃう魔法の手」の歌のように、
裕美さんはとびきりの「ママの手」を持った
天性の保育者であり、子供も大人も包み込む
大いなる母性の持ち主だったと思います。

その後も、お人形作りで、水戸のオイリュトミーで、
5年前に思い切って始めたライアーで、
フェルトの教室で、裕美さんと
たくさんの素敵な時間を持つことができました。
それは私にとって、安心して未知の世界の扉を開いていける
特別な時間でした。
うかつな私は、そんな時間がこれからも
ずっとずっと続くものだと思っていました。

今、裕美さんとの時間が突然途切れてしまい、
子供のようにおろおろしている私がいます。
もっとこうすればよかった、ああしていれば‥
と思いきりくよくよする私も…。
けれど、裕美さんを想うと、心の中に温かいものを感じます。
「大丈夫、元気出して!」と
裕美さんが励ましてくれているような気がして、
ふっと心が広がっていきます。

ありがとう、裕美さん。
裕美さんからいただいたたくさんのものを大事にしながら、
限りある命を精一杯生きていこうと思っています。
Jyunm
                                          ~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~裕美さんとの思い出  その1
星のハーモニー


裕美さんとの思い出を辿る上で欠かせないのは 
なんといっても 星のハーモニーでの事です。 
季節のライゲンや手遊び、お話しや人形劇、そして手仕事…
日立からの遠い道のりを つくばまで 
本当によく通ってくれて実践してくださいました。
末の娘が小さい頃は親子で参加させていただき、
後には ささやかながら お手伝いのスタッフとして 
あの時間 あの空間を共に過ごし 
その恩恵をたっぷりと味わわせていただきました。
裕美さんの澄んだ良く通る声で語られるライゲンは、
今でも耳に残っています。
特に印象深いのは 「ミツバチのライゲン」
裕美さんが、「さあ、みんなで原っぱに飛び出そう!」と
指をたて手を掲げると 私達は 本当にミツバチになって 
ブンブン言いながらマーガレットや
クローバーの花々の蜜を夢中で集めてまわり 
その蜜の甘さや重さを感じたものです。
毎回丁寧に準備されての活動は、
シュタイナーのエッセンスの詰まった宝物のような体験で 
裕美さんならではの職人芸的な才能が遺憾なく
発揮されていたなあと改めて思います。
その惜しみない献身に 心から感謝の気持ちでいっぱいです。
私達の胸には たしかなものが宿り、
私達のまわりに広がる世界が美しいものである事、
素晴らしいものにあふれている事を思い出させてくれました。
娘は 小学生の時の文集に、将来の夢は
「シュタイナー幼稚園の先生になりたい」と書いていました。
その想いに導かれて、本当に今 
シュタイナーの子ども園で働いています!
シュタイナーの学校で学んだ事はない娘にとって 
星のハーモニーでの体験が原点であり 
裕美さんの姿は憧れであり、モデルであったのだと思います。
そして もちろん私にとっても 
かけがえのない珠玉のような体験はずっと宝物であり、
今に息づいています。
のんのん                                           

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~美しく光る

どの瞬間にも裕美さんは惜しみなくエネルギーを注ぎ込み、
その空間はいつも美しく光っていました。
子供たちはもちろん大人たちも
裕美さんの手から生まれる作品には思わず微笑み、
優しくしてくれました。
コンサートの司会ではいつも聞く人が分かりやすいように
ユーモアも交えて語りかけ、
小物楽器も出番が来た時にスムーズに使えるように
置場所も一工夫がされていて、
そしてライアーに持ち変えて何事もなかったかのように
響きの中に入っていく様子は何気なく見えるようで、
それは本当に凄いことで、
妖精さんでなければ出来ないと思うほど!
裕美さん、たくさんの贈り物をありがとうございます。
これからも裕美さんの美しく光るエネルギーの
温もりを感じながら皆で響き合えたらと願っています⭐
Marit     
                                               ~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~まだまだ信じられない気持ちが強く、
追悼文を綴る気持ちになれなかったのが本音ですが、
思い出を一つ一つ思い浮かべるたびに、
裕美さんの存在感が生前のままなので、
なぜなの?なぜ裕美さんなの?と混乱してしまいます。

裕美さんには、本当にいろいろなことを教えていただきました。思い出を綴るとキリがありません。

ティンクルライアーM itoを水戸で立ち上げた時、
5年にわたり講師をつとめて頂き、
練習はもとよりコンサートの企画や、
衣装の制作までお世話になり、
今年10周年を迎えることができたのは、
裕美さんのご協力がなければ叶わなかったことだと
思っています。何度となく、ティンクルのコンサートにも
ご参加くださいました。

水戸でミニコンサートをした時に、
オカリナのすとうまきこさんとのコラボで、
裕美さんと「いつも何度でも」を
デュエットしたことがあります。
その時の練習風景を録音した音源を見つけました。
裕美さんのハーモニーが美しく懐かしくて泣けてきます。

そういえば、裕美さんと一緒に茨城放送に
生出演したことがありました。

二人でゲーリッシュリートを演奏して
ライアーのコンサートを紹介する生放送でした。
放送後に録音されたCDがもらえたので、
車の中で再生して聞いてみましたが、
あまりの茨城弁の見事さに、
「ヤダ、私たちってこんなになまってるんだ」
と大笑いしたことを覚えています。

私はアバウトでテキトーで、
いつも行き当たりばったりで詰めが甘いので、
裕美さんにダメ出しをされることが日常茶飯事でした。
「あ〜、また裕美さんに怒られちゃったよ〜」と思うその度に、なるほど、シュタイナーってそうなのか、
とシュタイナーの世界を垣間見ることができました。
裕美さんは、私にとっては先生のような存在でもありました。

書き出すとキリがありませんが、1番最近の思い出といえば、
吉田さんの故郷の安曇野へ行った時のことでしょうか。
安曇野までの往復の道のりを、疲れも見せずに
裕美さんは運転をしてくれました。
長い道のりでしたが、話すことは取り止めもなく、
本当に楽しい時間でした。その帰り道のことです。
遠くの雲行きが怪しくなり、雨が降るのかな、と思っていると、
突然大きな虹が助手席に座っている私の目に入りました。
「きゃ〜、裕美さん!虹、虹、虹が出てるよ〜!」
「えっどこどこ?アラ〜ホントだ〜」
と裕美さんと顔を見合わせた次の瞬間、二人同時に
「虹が虹がぁ〜 空にかかってぇ〜  君の君のぉ〜 
気分も晴れてぇ〜♪」と歌い出し、
キャハハハ〜!とまるで車内は、小学生の遠足のようでした。

本当に私は裕美さんには、してもらうことばかりで、
何も恩返しをすることができませんでした。
ただひとつだけ、裕美さんが助けた小さな命を
引き継いだことがあります。
裕美さんは捨て猫を放っておけない優しい人でした。
私は裕美さんが道端で保護した子猫を、
1匹だけ引き取って家族に迎えました。
その猫の動画を昨年の4月にFacebookに
アップしたことがあります。
すると裕美さんが「幸せそうで嬉しい。」
とコメントしてくれました。
思えば、その頃は子宮の摘出手術を受けて、
入院していた頃だったかと思います。
きっと病院で見てくれていたのでしょうね。切ないです。

最後のお見送りの日に、裕美さんの側で、
「いつも何度でも」を歌った時、
なぜかその歌詞が、ストン、と
自分の中に入ってくるような感覚がありました。
今まで、ショートバージョンで演奏することが
ほとんどでしたが、
この時、「あ、この歌はフルコーラスで歌わないと
いけない歌なんだ…」と思いました。
「ゼロになる体が耳を澄ませる、生きている不思議、
死んでいく不思議、花も風も街もみんな同じ。〜」
「始まりの朝の静かな胸、ゼロになる体、満たされてゆけ〜」
輪廻転生を繰り返し、
何度でも夢を見ることができる……
だから海の彼方を探しにいく必要なんかない、
私の中にいつも大切なものは生きているのだから…
そんなふうに思えました。

裕美さんの死は、受け入れ難いものですが、
裕美さんの心は自分の中にずっと生きていて、
そしていつの日かその魂は新しい命となって
生まれ変わってくる…

悲しみの数を言い尽くすより、同じ唇でそっと歌おう……
いま、私ができることは、そういうことなのかな。

私の思い出の中には、裕美さんの笑顔しか残っていません。
裕美さんには何もしてあげられませんでしたが、
感謝の気持ちを忘れずに優しい人になれるように
生きていきたいと思います。

裕美さん、見ていてね。                                 Keikom

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~裕美さんとの出会いは、2000年に遡ります。
日立市でシュタイナー教育を取り入れていた
大久保幼稚園の先生だった裕美さんが、
日立市でのエルゼ・クリンクアンサンブルオイリュトミー公演を
担当されていました。それ以前那須みふじ幼稚園で招聘され
黒磯市で同団体公演時、私が那須在住の頃実行委員をしていた
ご縁でお話が聞きたいとつくば市の穀菜レストランリッツンで、初めてお会いしました。

その前にも那須みふじ幼稚園での
シュタイナー教育特別研修講座(春期、夏期、秋期)のどこかで
すれ違っていたかもしれません。

色んな分野にご興味を持たれ、スウェーデン羊の詩舎講師、
パソコン教室講師をはじめ、
オイリュトミー、アロマテラピー、着物の着付け、お茶、
革細工、英語、ブログ、編集etc、、と
多彩な趣味や様々な資格も沢山お持ちでした。
まだまだ私の知らない分野でも多方面で
ご活躍だったことと思います。

そしてライアーの世界でも、ひたちライアーの奏で、
いわきライアーリング、ティンクルライアーMitoでも
リーダーとして長年指導され、仲 正雄さんのWS、
ジョン・ビリング氏のコンサートや講座等も主催されました。
そして、地元や地方でのそれぞれのグループのお仲間と共に、
実に数多くの公演依頼を引き受けられて
多くの人びとにライアーを広め、癒しの音色を届けられました。つくばや東京方面でも何度もお手伝い頂きました。

またライアー響会主催の教師コースの他、
泉本信子さん主催の音楽コース3期生として、深く学ばれました。
アイルランドやスウェーデン、ドイツ等多くの
ライアー世界大会にも参加され、多くの人々に愛され親しまれて
グローバルにも活躍されていたことは、ご存知の通りです。。

ライアー響会では、簿記の資格もお持ちで、
大変な会計のお仕事や、大会や講座時の写真撮影、
一時期HPも担っていただき、
フェイスブックにも携わって頂きました。
ライアー大会でもご一緒に泊まって語り合ったり、
数々の思い出は尽きることがありません。

つくばライアーの響きには、発足して間もなくメンバーとして、ご一緒にアンサンブルをして、数々のコンサートの舞台装飾や、レイアウト、ウォルドルフ人形の展示、写真、ビデオ撮影を、
記念の年には、ロゴ制作をはじめ、
記念品や15周年には記念誌まで作って頂きました。
多くのグループやメンバーのライアーカバーや衣装の縫製まで、何から何まで大変お世話になりました。

つくばの秋のコンサートのための夏合宿では、
ほぼ毎回ご一緒し、
「ゆかりの森」や「オルフェの庭」でみんなで語り合い、
笑い合った楽しい思い出ばかりが浮かんできます。
一品持ち寄りの会では、
お得意の様々な種類のお料理も披露されました。

2019年には、金沢、八ヶ岳、安曇野と演奏旅行でもご一緒し、
観光でも大変お世話になりました。

2004年8月から2020年2月まで(月1回年10回程)続いた
つくばでの『星のハーモニー』にも、
熱心に通ってご指導くださり、たくさんの子供達に、
また親御さんたちの為に、人形劇、水彩画やアートワーク、
ゆかりの森のお散歩等で、幸せなひと時を
皆さんと共有していただきました。
春まつりなどのイベントでは、羊毛で手作りの羊さんや小物、
お菓子も作って提供してくださいました。
毎回、本当に遠くから車にいっぱいの大荷物を積んで
きていただいていました。
そのおかげでどれだけ多くの皆さんが
幸せな笑顔になったことでしょう~
何をお願いしてもなんでも快く引き受けてくださいました。
また本当に博識で何を聞いても詳しく説明して下さり、
それでも「まだまだ修行が足りない、、」と言われて、、。
かなりの努力家であり勉強家だな~といつも感心していました。

これまで、時に徹夜したりもしながら、
全力で信じられない位かなり多くのお仕事をこなされて
おそらく10人分位の働きをされていたのではと思われます。
長い間よく頑張られて、本当にお疲れ様でした、、。
裕美さんはこれからも、
きっと天使となっていつも私たちの傍らで、
優しく微笑みながら見守ってくださっているに
ちがいありません。
裕美さんとの思い出は多くの方々の心に残り、
それぞれの皆さんの中で生き続けて、
光の世界でもずっと輝き続けていかれることでしょう。
これまで本当にありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。                                 芝山恭子

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